岡田啓介内閣の成立

この記事は中学生にはまだ少し難しい話ですが、歴史が好きな方は読んでみてください。高校や大学受験にはちょうどいい塩梅ではないか、と思います。特に戦前の政治の仕組みを現在の仕組みと比べて考えて見てください。

今日のキーワードは「憲政の常道」です。

 

もう少し基礎的なレベルの話はこちらをご覧ください。

歴史の大きな流れを押さえようー昭和時代1

歴史の大きな流れを押さえようー昭和時代2

 

最近岡田啓介にハマっています。元総理大臣の方です。

 

 

 

岡田啓介と言えば2・26事件で暗殺されかかったが奇跡的に助かった総理大臣というイメージしかありませんでした。あとは美濃部事件の時の内閣で国体明徴声明を出して立憲体制を瓦解に追い込んだ内閣、というイメージですね。

 

実際には岡田啓介を首班とする岡田内閣はなかなかスリリングな事情を抱えていました。

 

当時の日本は政党内閣が崩壊し、さりとて軍事独裁内閣にも向かわない宙ぶらりんの状態が続いていました。

 

そこでまずは当時の政治について見ておきます。今の日本の政治とは少し形が異なります。現在の日本の政治システムは議院内閣制と言い、議会の多数派の政党の党首が内閣総理大臣になります。しかし大日本帝国憲法は政党政治を基本としていなかったため、内閣総理大臣の選び方は天皇が任命する形でした。実際に誰が内閣総理大臣になるのかと言えば、当初は政府の実力者でしたが、やがて政党が進出し、藩閥と政党の二つの勢力ができるようになりました。藩閥のリーダーが山県有朋、政党のリーダーが伊藤博文となり、やがて彼らは第一線を退き、「元老」という立場になります。その元老が内閣総理大臣を指名するようになったのです。これが1930年代まで続きました。最後の方は「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望がその役を担っていました。

西園寺公望

西園寺は伊藤の薫陶を受けた政党政治の支持者でした。従って西園寺が最後の元老として内閣総理大臣を指名していたときは「憲政の常道」に従って内閣総理大臣が決まっていきました。それがいわゆる「政党内閣」の時代です。

 

政党内閣は政友会の総裁の原敬が組閣の大命(内閣総理大臣に任命し、内閣を作れという天皇の命令)を受け、軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)を除く閣僚(大臣)を政党が出す、という「本格的な政党内閣」を作り上げます。

「政党内閣」の対義語が「超然内閣」ですこれは議会の勢力に影響されることなく内閣は議会と独立して政治を行う、という形の内閣です。原敬内閣の前の寺内正毅内閣や原敬内閣の後の清浦奎吾内閣がこれに相当します。清浦奎吾内閣を倒して護憲三派(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部)による加藤高明内閣が登場します。

 

ここからが「憲政の常道」の出番です。立憲政友会・立憲民政党という二大政党に収斂しますが、内閣が行き詰まって辞職した場合は、もう一つの政党に政権を交代させ、内閣総理大臣が病死や暗殺などで欠けた場合は同じ政党で内閣を作る、という形です。議会の多数・少数は関係ありません。少数政党に組閣の大命が降下した場合は大体は解散総選挙となります。現在とは異なり、選挙があるのは衆議院のみです。貴族院は選挙はありません。

 

で問題が起きたのは5・15事件で立憲政友会の犬養毅総理大臣が暗殺されたときです。

犬養毅

「憲政の常道」に従えば、犬養と同じ立憲政友会の鈴木喜三郎に組閣の大命が降下するはずでした。

鈴木喜三郎

しかし犬養内閣の陸軍大臣荒木貞夫が政党内閣に反対の意を唱えたこと、田中義一内閣の時に内務大臣として選挙弾圧を実行した鈴木は憲法遵守の面で問題があると西園寺と昭和天皇は判断しました。その結果鈴木を回避して穏健派の海軍軍人だった斎藤実を総理大臣にします。ここに政党内閣は終わりを告げましたが、斎藤内閣は立憲政友会と立憲民政党の双方から入閣させるという形を取り、満州事変による混乱を早期に収めようとしていました。ただ立憲政友会の不満は高まっていきます。それはそうです。「牽制の常道」に従えば立憲政友会が政権与党だったはずですから。そして斎藤の政策は陸軍の反発を招き、枢密院副議長で総理大臣の座を狙っていた平沼騏一郎が斎藤内閣を倒すために帝人事件を仕掛け、斎藤内閣の閣僚や関係者が多く逮捕されます。全員無罪となりますが、斎藤内閣は総辞職に追い込まれました。

斎藤実

 

斎藤内閣のように与野党合わせて入閣する形を「挙国一致内閣」と呼びます。中でも斎藤内閣のような形を中間内閣とも呼びます。超然内閣でも政党内閣でも軍事独裁内閣でもない、どっちつかずの内閣です。こうなったのは昭和天皇と西園寺、そして斎藤の構想ではなるべく早く政党内閣に復帰することを考えていたからです。

 

しかし政党内閣への復帰は叶わず、斎藤実内閣が倒れた後、斎藤内閣の路線を継続させるために斎藤内閣の海軍大臣であった岡田啓介に組閣の大命が降下します。またしても政権が取れなかった衆議院第一党(多数党)の立憲政友会は岡田内閣への協力を放棄します。

岡田啓介

ここで「挙国一致内閣」を諦める岡田ではありません。岡田は政友会内部に手を突っ込み、非主流派の三人を引き抜きます。この三人は政友会を除名になりました。さらに岡田は政友会の大物の高橋是清を引き抜きます。政友会は完全に野党となり、岡田内閣は議会では少数与党となり、さらに陸軍とのパイプの太い政友会を敵に回すことによって陸軍の主流派とも対立することになります。

高橋是清

 

次回はその岡田内閣を攻撃するために行われた天皇機関説事件を取り上げます。

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