歴史の大きな流れを押さえようー昭和時代3
いよいよ太平洋戦争です。もうすでに日中戦争は泥沼に入っており、この段階では「ポイント オブ ノーリターン」を超えている気もします。私の大学時代の近代史の先生であった岩井忠熊立命館大学教授は張作霖爆殺事件がそれだ、とおっしゃっていました。私はなんとなく斎藤実内閣が倒れたときかな、という気がしています。
この時期の内閣は第二次近衛内閣・第三次近衛内閣と来て東条英機内閣の時に太平洋戦争に突入します、東条内閣が倒れた後はまた迷走します。特に反東条の重臣たち(岡田啓介・米内光政ら)が東条内閣を倒してアメリカとの講和を模索する時期に当たっています。ただ日本国民は戦争に勝ちつつある、と思い込んでいたためにどうやってソフトランディングしようか、と試行錯誤しているうちに原爆が投下され、ソ連が日ソ中立条約を破って参戦してくる、という流れでしょう。
例によって中学受験に必要な知識を赤字としています。
1 第二次・第三次近衛文麿内閣
⑴ 第二次近衛文麿内閣
1940年7月、米内光政(よないみつまさ)内閣が陸軍による倒閣運動で倒され、陸軍の意に反した政権運営は海軍軍人(米内光政は海軍大将で直前まで海軍大臣だった)でもできないことが明らかになってきました。
米内光政が消極的だった「新体制運動」(ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニを見習おう、という運動)の主導者であった近衛文麿(このえふみまろ)に組閣の大命が下りました。平沼内閣の指名から元老の西園寺公望は組閣には関わらなくなり、組閣の大命は内大臣(宮中のことを取り仕切る)が行うようになりました。米内内閣の崩壊を受けて西園寺は近衛への同意を断っています。
近衛内閣の主な業績は組閣直後に「大東亜共栄圏」や国防国家の完成を目指すことを明らかにし、9月には米内光政や西園寺公望の反対によって実現しなかった日独伊三国同盟(1940年)を結ぶことを実現し、またその直後には一党独裁を目的に今までの政党を一本化した「大政翼賛会」が発足しました。この結果帝国議会は軍部の方針を追認し、支えるだけのものとなりました。そのような体制を「翼賛体制」といいます。大政翼賛会に参加せず、独力で戦った議員もいました。安倍寛衆議院議員(安倍晋三前総理大臣の祖父)や斎藤隆夫衆議院議員(反軍演説で衆議院議員を除名)という非翼賛議員も少数存在しましたが、彼らは非常な苦労を強いられた、といいます。
近衛内閣の外務大臣は松岡洋右(まつおかようすけ)でした。国際連盟脱退の時の全権大使です。松岡外務大臣は日ソ中立条約(1940年)を結びます。松岡の構想は世界を「ヨーロッパ・アジア・アメリカ・ロシア」の四つにわけ、それぞれのブロックが協調し、世界平和を実現する、というものでした。
しかし松岡のこの構想はヒトラーが独ソ不可侵条約を一方的に破ってソ連と戦争を始めたことによってうまくいかなくなります。さらにアメリカとの交渉では苦労します。そして松岡は日ソ中立条約を破ってソ連との戦争を主張しますが、当時の政府は東南アジアに軍隊を出して日本の支配下に置くことで石油の確保を目指そうとしていました。いわゆる「仏印進駐」です。「仏印」とは「フランス領インドシナ」のことで、現在のベトナムに当たります。
ソ連との戦争を主張し、それを曲げない松岡大臣に対し、近衛総理は松岡に外務大臣辞任を迫りますが拒否され、近衛は内閣総辞職します。これは大日本帝国憲法には閣僚の罷免(ひめん)権(やめさせる権限)がなかったためです。日本国憲法では「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる』(68条)と定められています。
⑵ 第三次近衛文麿内閣
1941年7月、松岡洋右外務大臣を外すために内閣総辞職し、改めて組閣の大命を受けるという形で第三次近衛内閣は成立しましたが、アメリカとの交渉は困難を極めました。
特に1941年8月にはアメリカは日本への石油輸出禁止に踏み切り、日本に圧力をかけます。これを経済制裁といいます。そしてこの経済制裁にはアメリカ(America)・イギリス(British)・中国(China)・オランダ(Dutch)が参加したことから、それぞれの頭文字をとってABCD包囲陣(ABCD包囲網)と呼ばれます。
これに対して日本では10月までに日米交渉がまとまらなければ対米戦争に踏み切ることを決定しますが、それに対して及川古志郎(おいかわこしろう)海軍大臣は「アメリカの要求を丸呑みする覚悟で交渉すべし」と主張します。一方東条英機(とうじょうひでき)陸軍大臣は中国および仏印からの撤退に難色を示し、近衛は政権を投げ出し、総辞職しました。
2 東条英機内閣とアジア・太平洋戦争
近衛の後には陸軍出身で皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が有力視されていました。対米開戦に積極的な陸軍への抑えになると期待されたからでした。近衛も東条も東久邇宮を推していました。しかし内大臣の木戸幸一(木戸孝允の孫)は独断で東条英機を後継首相として推挙し、昭和天皇は同意しました。木戸は陸軍を抑えることができるのは東条しかいない、と考えていたからです。それに対し昭和天皇も「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だね」と答えました。この決定には当の東条自身が一番びっくりした、と言われています。
⑴ 東条英機内閣
東条内閣は大政翼賛会を支持基盤とした挙国一致内閣で、東条英機総理大臣は総理大臣・陸軍大臣・内務大臣を兼任し、絶大な権力を握りました。日本の譲歩により対米交渉が成立した時に予想される社会の混乱を押さえ込むために陸軍と警察を総理大臣が直接掌握するためだったと言われています。しかしアメリカの強硬な意思を示すハルノートによって対米交渉を打ち切り、日米開戦に踏み切りました。
アメリカ側は強硬な姿勢を示せば日本側が折れる、とみていましたが、この当てが外れたようです。
1941年12月8日、日本は英領マレー侵攻と真珠湾攻撃によって英米と交戦状態に入ります。真珠湾攻撃は誰でも知っているために入試では逆に出ないだろうと思われますが、英領マレー(現在のマレーシア)への侵攻は出題される可能性もありますので、セットで押さえてください。
その後日本はオランダ領の東インド(現在のインドネシア)を抑え、石油を手に入れることができるようになりました。
1942年4月には衆議院議員の任期満了(戦時特例として1年間延長されていた)に伴い、大政翼賛会中心の選挙が行われ、大政翼賛会は議席の80%以上を占めました。
しかしその直後の1942年6月に海軍がミッドウェー海戦で敗北し、空母4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)を失って劣勢に立たされるようになりました。
東条内閣は戦争遂行のために大東亜省・軍需省などの省庁再編を行い、東京府と東京市を廃止して東京都を設置しました。しかし戦争が苦しくなると東条内閣も弱体化し、1943年正月には岡田啓介元総理を中心とする東条内閣打倒・終戦工作が始まりました。
1944年6月にはマリアナ沖海戦でサイパン島を失い、B29型爆撃機による空襲が本格化します。岡田らによる工作には若槻禮次郎・近衛文麿・米内光政・平沼騏一郎ら歴代の総理経験者(重臣)が参加し、東条内閣は7月に退陣しました。
⑵ 小磯国昭内閣
終戦に反対するのは陸軍であることは確実であったため、東条の後任には陸軍から出すことが必要でした。白羽の矢が立ったのは朝鮮総督であった小磯国昭(こいそくにあき)予備役陸軍大将でした。しかし長らく日本の政界から離れており、政治基盤のない小磯をバックアップするために重臣の米内光政が小磯とともに大命を受けて組閣し、事実上小磯・米内連立内閣とも言われます。
しかし東条の動きや大政翼賛会との妥協のため、効率が悪く「木炭自動車内閣」(ガソリン不足のために木炭の一酸化炭素を燃料とした自動車。力が弱く遅かった)と揶揄され、その間にレイテ沖海戦で日本海軍は壊滅し、1945年3月には東京大空襲・米軍の沖縄上陸という情勢になり、小磯総理によって行われていた中国との和平交渉も閣内からの反発を受けて失敗し、小磯内閣は閣内不一致で総辞職しました。
⑶ 鈴木貫太郎内閣
小磯内閣の総辞職に伴い、重臣の会議(元総理と内大臣、枢密院議長)の結果、枢密院議長の鈴木貫太郎退役海軍大将(二・二六事件の時の侍従長)に組閣の大命が下り、米内光政は引き続き海軍大臣として止まることになりました。
鈴木内閣が発足した直後にはドイツでナチスドイツのヒトラー総統が自殺し、1945年5月、ドイツ軍は無条件降伏しました。これによって日本は同盟国を失い、6月には沖縄は地上戦によって大きな被害を出したのちに米軍によって占領され、日本が負けることは誰の目にもはっきりしていました。
米内光政らはソ連を通じた和平交渉に望みを託しましたが、1945年2月のヤルタ会談の密約で対日参戦を決めていたソ連はそれを拒否、7月26日にはアメリカ・イギリス・中国の名前でポツダム宣言が出されます。東郷茂徳外務大臣はポツダム宣言の受諾を主張しますが、陸軍からは拒否するように圧力があり、鈴木総理はそれに屈してポツダム宣言を黙殺する、という声明を出してしまいます。
その結果、8月6日には広島への原爆投下、8日にはソ連が日ソ中立条約を破って日本に宣戦、9日には長崎への原爆投下が行われました。
ここに至って米内海軍大臣と東郷外務大臣はポツダム宣言受諾を強く主張、一方阿南惟幾陸軍大臣は本土決戦を強く主張し、終戦は遅れます。8月14日には鈴木総理が天皇に「聖断」(天皇の決断)を仰ぎ、ポツダム宣言の受諾が決定され、8月15日正午、昭和天皇による「玉音放送」とともに戦争は終わりました。
鈴木総理は閣内をまとめられず、聖断を仰いだ責任をとって総辞職しました。