江戸時代の社会・学問
江戸時代の社会と学問について見ていきます。
1 産業の発達
ざっくり覚えておくべき言葉を示します。
江戸時代における農業の発達
まずは新田開発です。江戸時代の始まりから100年でだいたい倍になっています。
農具として千歯こき、備中ぐわの二つを押さえておいてください。
まずは備中ぐわです。これで土を深く耕すことができます。
千歯こきです。このギザギザのところに稲をはさんで一気に脱穀ができます。
この二つを覚えておけばいいでしょう。
こういった新しい技術の導入によって農業の生産力がものすごく大きくなりました。
肥料についても大きな発達がありました。
金肥(きんぴ)と呼ばれる肥料です。訓読みして「かねごえ」と言った方がわかりやすいかもしれません。農家がお金を出して買う肥料です。鎌倉時代に使われ始めた「草木灰」は焼いて作ります。しかし人の「💩」は少量ならば自家調達できますが、多量に入手しようとすれば都市部から調達するより他はありません。
室町時代には「💩」は使われ始めていましたが、江戸時代には都市部と周辺の近郊での食料と「💩」のサイクルが出来上がっていました。これをみたエドワード・モースが感動したのは国語のテキストに書かれています。
中学入試で出る「金肥」は油かす(菜種油や綿実油など植物性の油を搾り取ったあとのかす)と干鰯(ほしか)を覚えておけばいいです。「干鰯」は字の通り干したイワシです。
油かすや干鰯などの金肥は、森林や草原など肥料の入手先から離れた場所でも導入できやすく、新田開発を推し進める原動力にもなりました。また効果も高かったので、生産力も上がります。さらに綿花や果実などの「商品作物」にも効果がありましたので、日本各地でさまざまな商品作物、例えばなたね、茶、綿、みかんなどが生産されるようになりました。
ここで「マニュファクチュア」という用語について説明しておきます。
「マニュファクチュア」とは「工場制手工業」のことです。
ちょっと何言ってんだか分かんないですね。
「マニュ」というのは「マニュアル」で、手動ということです。「ファクチュア」というのは「ファクトリー」=工場から来ています。つまり手工業のことです。工場で行われる手動、つまり動力を使わない工業のことです。
こういう歴史の流れになります。
農村で商品作物を栽培→問屋制家内工業→工場制手工業(マニュファクチュア)
ワタを栽培する農村があります。ワタは加工して綿糸にしないといけません。さらにそれを織って綿織り物にして初めて商品として流通します。
一軒一軒の農家でそれを作り始めます。こういう形を「家内工業」といいます。
家内工業で作られたものを売りさばくために問屋さんが間に入って売ります。「問屋制家内工業」というのはそういうことです。
しかしそれが大規模になってきますといちいち問屋さんが回るのも大変です。それよりは家内工業を集めて工場を建てた方が楽です。そこで「工場制手工業(マニュファクチュア)」の出番です。
例としては桐生・足利(栃木県)の絹織物、灘(兵庫県)の酒、野田・銚子(千葉県)のしょうゆなどが挙げられます。これは金を出す人(資本家・ブルジョアジー)とそこで働く人(労働者・プロレタリアート)という階級を作り出し、近代資本主義のさきがけとなるものでした。そしてマニュファクチュアとブルジョアジー・プロレタリアートの階級、そこに動力による機械の導入という産業革命が起こって世界は近代社会へと発展していくわけです。
2 交通の発達
⑴ 陸上交通
五街道の整備ということで、五街道をしっかりと覚えてください。五街道とは江戸の日本橋を起点とし、江戸と重要な地点を結んだ主要街道です。
東海道(江戸〜京都)→海沿いに通り、53の宿場町があったことから五十三次と呼ばれます。現在の東海道本線や国道一号線です。
中山道(江戸〜草津)→草津(滋賀県)で東海道から分かれ、長野県など山の方を通って下諏訪で甲州道中と分かれて群馬県から江戸に向かいます。鉄道でいえば中央西線から信越本線です
甲州道中(江戸〜下諏訪)→江戸幕府の直轄地であった甲斐国(甲州・山梨県)を通る街道です。現在の中央東線です。
日光道中(江戸〜日光)→徳川家康をまつる日光東照宮への参道として作られました。
奥州道中(江戸〜白河)→奥羽の外様大名の抑えとして設置された白河藩に続く街道です。実際には宇都宮より南は日光道中と共用というか、正しくは「宇都宮〜白河」とすべきですが、テキストにそろえました。
こういう街道では一里(約4km)ごとに一里塚が置かれ、宿場には人足と伝馬がおかれ、幕府のために荷物を運びました。その見返りとして宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊などでお金をかせぐことが許可されました。
街道には関所が置かれ、人の出入りをチェックしていました。特に東海道では江戸に入ってくる武器と江戸から逃亡する恐れのある諸大名の妻子に神経をとがらせ、「入鉄砲に出女」と呼ばれ、入鉄砲には老中の発行する鉄砲手形、出女には老中の下にあって通行手形の管理を行っていた留守居の出す女手形が必要で、特に厳しくチェックされました。
⑵ 海上交通
ここでは河村瑞賢の開いた「東廻り航路」と「西廻り航路」について説明します。
東北の米を江戸に運ぶにはどうすればいいでしょうか。
陸上輸送よりも海上輸送の方が多くの荷物を早く運べます。
米の積出港であった酒田(山形県)をスタートして江戸に運びたいと思います。
ルートは二つ考えられます。
酒田から北に向かって秋田・青森を通って津軽海峡から太平洋に出て江戸に向かうという東廻り航路です。これは千葉県の房総半島の先っぽの犬吠埼という難所があり、従来はそこを避けて利根川に入っていました。しかし河村瑞賢(かわむらずいけん)は犬吠埼を突破することに成功し、荷物の積み替えを行うことなく東北の米を江戸に運ぶことに成功しました。下田(静岡県)に一旦入って風向きが変わるのをまって江戸に入るやり方でした。
もう一つ、酒田から南に向かって日本海を通って関門海峡から瀬戸内海に入り大坂に一旦入るとそこから紀伊半島を回って太平洋に入り、下田から江戸に入る経路でした。この西廻り航路が開かれたことによって、それまで越前国(福井県)で一回陸に上げてそこから琵琶湖を通って運んでいた東北〜大阪の航路も西廻り航路を使うようになりました。
3 江戸時代の学問
江戸時代の学問はテキストにもほぼ書いていないのでこちらでやらざるを得ません。最近はこういうところを削っていくのですが、難関校はそういうところを出してきます。
⑴ 儒学
孔子の教えである儒学は特に朱子学と言われる学問が「正学」とされ、それ以外の儒学は「異学」とされて「寛政異学の禁」で幕府の学校(昌平坂学問所)で講義することを禁止されていることを理解すれば問題ありません。
朱子学者として有名なのは林羅山です。徳川家康に重用され、その後の幕府の正学となったのは林羅山の朱子学でした。この流れはそもそもは豊臣秀吉の朝鮮出兵で強制連行されてきた姜沆(きょうこう・カンハン)という朱子学者によります。姜沆は藤原定家の子孫である藤原惺窩(ふじわらせいか)と出会い、彼に朱子学を教え、藤原惺窩の弟子の林羅山につながっていきます。したがって日本の朱子学は朝鮮朱子学の流れを引いており、そこから朱子学を中心に儒学の様々な教えが広まっていきます。
朱子学以外では陽明学が知られています。有名な陽明学者としては大塩中斎(大塩平八郎)がいます。
大塩平八郎についてはこちらを参照。
他には近江聖人と呼ばれた中江藤樹や熊沢蕃山が知られていますが、中学入試では基本的に関係ないでしょう。中学生になれば触れられると思いますし、難関高校や大学入試では彼らの名前はしっかり押さえておきたいものです。
中国の宋の時代に朱熹(しゅき)という人物によって始められた朱子学や、王陽明という人物によって始められた陽明学に対抗して「孔子の昔に戻ろうぜ」という考えで孔子の教えを直接研究した人々を古学派といいます。同じく中学入試では気にしなくていいレベルです。山鹿素行・伊藤仁斎・荻生徂徠という人物がいます。山鹿素行は朱子学を批判し、赤穂藩に流されて赤穂藩の人々に大きな影響を与えました。荻生徂徠は徳川綱吉の側近の柳沢吉保に仕え、赤穂浪士の事件の時には切腹を主張していたことで知られます。
⑵ 国学
日本の古典を見直そうという動きです。儒学や仏教という外来思想ではなく、日本古来の見方を研究しようというものです。
国学者の始まりとして有名なのは契沖という僧侶で、それに影響を受けたのが荷田春満(かだのあずままろ)ですが、この辺は中学生以降に出てきます。
とりあえず賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤を覚えればいいです。
特に一人選べ、と言われれば本居宣長です。「古事記」の研究で知られており、主要な著作は『古事記伝』です。
彼の和歌にこんなものがあります。
敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜かな
意味は「大和心とは何か、と言われれば朝日に美しく見える山桜だなぁ」というものです。大和心と桜を結びつけたこの短歌をもとに作られたのが神風特別攻撃隊の最初の部隊であった「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」が結成されました。体当たりの特別攻撃隊に宣長の歌が採用された背景には、そのころ「武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていった」(白井勇『大日本国体物語』1940年)というような考えがあるでしょう。
詳しくはここを参照。
しかしこれは国語のテキストにも出てきますが、一斉にいさぎよく散っていくのは江戸時代末期に作出されたソメイヨシノです。宣長の時代にはソメイヨシノはなく、山桜はソメイヨシノとは違ってだらだら散っていきます。宣長の和歌は戦前の日本の戦争に都合よく使われた、と言えそうです。
⑶ 洋学(蘭学)
徳川吉宗は漢訳洋書の輸入を解禁し、その結果西洋の知識が入ってくることになります。ちなみに原語のオランダ語で書かれた洋書は輸入は許されていました。というのは、当時オランダ語を読めたのは幕府の役人だけだったからです。
洋学として押さえておくべき人の第一は杉田玄白と前野良沢です。
前野良沢と杉田玄白はオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を手に入れ、それを苦労して翻訳します。それが『解体新書』です。
あとはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを覚えておけばいいです。シーボルトだけでいいです。
彼はドイツ人でしたがオランダ人とうそをついて入国しました。そして出島で医者として活躍しますが、やがて長崎郊外に鳴滝塾を開いて多くの洋学者を育てます。代表的な人物がのちに蛮社の獄で弾圧される高野長英です。
ちなみに伊勢エビの学名を「Panulirus japonicus (Von Siebold, 1824) 」と言いますが、最後の「Von Siebold」というのが伊勢エビを研究し、論文として学名記載した人であるシーボルトです。
彼の名前がついている代表的なものにシーボルトミミズがいますが、他にはオニヤンマ(Anotogaster sieboldii )がいます。和名ではオニヤンマですが、学名が「シーボルディ」です。
その他の学問
日本地図を作成した伊能忠敬(いのうただたか)の名前は外せません。
ちなみにシーボルトは伊能忠敬の地図を持ち出そうとして捕まり、日本から国外追放となります。ちなみにシーボルトは日蘭修好通商条約が結ばれた時に国外追放も外され、再び日本に来ています。
和算という日本型の数学を大成した関孝和(せきたかかず)も一応覚えておきましょう。エレキテルやウナギの土用丑の日を考えた平賀源内も一応頭には入れておいて損はないでしょう。