生麦事件

江戸幕府の滅亡です。

 

いま思い出しましたが、「社会 要点のまとめ」という教材がありました。そこの「31」を開いてみますと、いきなり「1862 生麦事件がおこる」と書いてあります。どういう事件でしょうか。

 

実はこの後の幕府や薩摩藩やイギリスなどに大きな影響を与え、日本の歴史の転換点ともなった事件です。

 

1862年のことです。前回説明した安政の五カ国条約によって外国人は居留地に住むことを許され、貿易を開始していました。江戸近郊では横浜が居留地となっていました。

 

横浜で絹を日本から輸入していた貿易商人のウィリアム・マーシャルは、妻のクレメンティナの妹のマーガレット・ボラディルが来日したため、彼女を近所の川崎大師に連れていくことを計画しました。彼はビリヤード友達のウッドソープ・クラークをさそいました。クラークは上海時代に一緒に仕事をしていて、イギリスに帰るついでに日本観光をしようと来日したチャールズ・リチャードソンをさそい、四人で川崎大師に向かいました。

 

その途中、彼らは大行列に出会います。

 

薩摩藩主島津忠義の父で藩主後見を務めていた島津久光の行列でした。久光は幕政改革を行うため、大軍を率いて京都に入り、朝廷に働きかけて幕府に圧力をかけました。孝明天皇の命令書を得た久光は勅使(天皇の使者)の大原重徳(おおはらしげとみ)とともに1000人を率いて江戸に入り、幕政改革を強行します。

まずは安政の大獄で処罰された人々を無罪とすること、松平春嶽と徳川慶喜を幕政に参加させることなどでした。この動きを「文久の改革」といいます。中学入試では覚える必要はありません。忘れてください。

 

文久の改革を幕府にやらせて京都に帰る途中の久光の行列にマーシャルら四人は出会ったのでした。

 

当時大名行列に出会った場合、人々は道の脇によけることが決められていました。ちなみに「下にー」と言いながら来て人々が土下座をするのは紀州藩と尾張藩の大名行列だけでした。

 

しかしマーシャルらはそんなことは知りません。脇によけようとは思ったようです。しかし道いっぱいに広がる大名行列をそのまま行列の中を突き進んでしまいました。当然行列の武士たちは「馬から下りよ」と警告しますが、言葉が通じないのと、マーシャルらも焦っていたのでしょう、馬から降りずにそのまま行列を突っ切ってしまい、鉄砲隊を抜けて久光の近くまでやってきてしまいました。

 

さすがに藩主後見人の久光の近くまで馬を乗り入れてきた、とあれば周りの雰囲気も変わります。彼らも「まずい」と気づいたのでしょう。そこで馬から降りる、という発想があればよかったのでしょうが、彼らはそのまま引き返そうとしました。

 

その時、藩士の奈良原喜左衛門がリチャードソンに切りかかりました。重傷を負ったリチャードソンは200m先で落馬し、薩摩藩士の海江田信義が「今、楽にしてやっど」ととどめを刺しました。マーシャルとクラークも重傷をおい、ボラディル夫人に「逃げなさい」と声をかけました。ボラディル夫人は帽子と髪の毛の一部を切られただけで無傷で横浜に駆け戻り、助けを求めました。マーシャルとクラークも近くのアメリカ領事館に逃げ込み、保護されました。彼らを治療したのがジェームス・ヘボン博士で、ヘボン博士はヘボン式ローマ字の考案者としても知られています。

 

当然ながらイギリスは激怒しました。イギリスの外相のジョン・ラッセルはイギリス東インド艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将にいざという時の日本封鎖の準備を指示しました。そしてその方針はビクトリア女王臨席の会議で決定され、ビクトリア女王の勅令が出されます。

 

幕府は非常に困りました。ちょうど文久の改革を押し付けて帰っていった薩摩藩が幕府に対する嫌がらせで事件を起こしたのではないか、と考えてすらいたようです。

 

久光も困っていました。久光はあくまでの幕府と朝廷が協力して政治を行なっていくべし(これを公武合体といいます)という考えでしたが、外国人を殺した、ということで英雄視され、いつのまにやら尊王攘夷の方に入れられそうになったのです。久光はやばい、と思ったか、早々に鹿児島に戻りました。

 

イギリスは幕府と薩摩に対して賠償と謝罪を要求します。幕府はいろいろと揺れましたが、老中小笠原長行の独断(将軍後見職の徳川慶喜の黙認とも言われます)で賠償金を支払いました。

 

イギリスは薩摩藩にも賠償金を求めるために軍艦7隻を鹿児島湾に入港させます。薩摩は交渉を拒否し、薩英戦争が起こります

 

イギリスは鹿児島の街の十分の一を砲撃で焼失させますが、薩摩の砲撃で旗艦ユーライアラス艦長ら13人の戦死者を出し、ユーライアラスは大破します。

 

講和交渉が行われ、薩摩側の使節の重野安繹(のちに日本における歴史学という学問を打ち立てます)が強硬でしたが、最終的に賠償金を支払い、イギリスから軍艦を購入するという条件で和睦します。

 

一般には薩摩藩の敗北とされますが、イギリス側は薩摩藩の強さを思い知り、また薩摩藩もイギリスの文明と軍事力を思い知った結果、両者は友好関係を深めていくことになり、明治維新に向けての原動力となります。

 

 

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