大伴氏について

リクエストがあったので大伴氏について少し書いておきます。

 

大伴氏は古い一族で、いつ頃から大和王権に従っていたのか、というのは判然としません。「大伴」の氏名(うじな)の由来は「大きな伴造(とものみやつこ)」という意味です。伴造(とものみやつこ)は大和王権に直属する専門者集団です。大伴氏は軍事的な専門家集団を率いていたと言われています。

 

1 大伴氏の最盛期

大伴氏が歴史の表舞台に出てくるのは21代天皇雄略天皇のころです。

 

雄略天皇は稲荷山古墳から出てきた鉄剣に刻まれていた「獲加多支鹵(わかたける)」のことで、中国の歴史書『宋書(そうじょ)』倭国伝に登場する「倭王武」のことでもあります。さらに言えば雄略天皇は現在神話以外で確認できる最古の天皇でもあります。

 

雄略天皇のころに大和王権における「大王(おおきみ)」の力は強くなり、他の豪族とは違ったレベルの王となっていきます。

 

その過程で、それまで大王とともにヤマト(大和・倭)王権を作ってきた豪族たちが没落します。彼らは「地名」を氏(うじ)の名前としていました。ここでいう「氏」とは、共通の先祖を持つと考えられている集団のことです。少し難しい言葉を使えば「氏族(しぞく)」という文化人類学の考え方がぴったりです。

 

葛城(かずらぎ)氏や平群(へぐり)氏が代表的な氏族です。

葛城氏は大王の有力な外戚(母親の親戚)として力を振るってきました。学者の中には「大王・葛城連合政権だった」という人もいます。

 

その葛城氏と平群氏は雄略天皇によって大きく力を削られ、代わりに力を伸ばしてきたのが職人集団を従え、姓(かばね)に「連(むらじ)」を持つ「大伴連(おおとも の むらじ)」や「物部連(もののべ の むらじ)」でした。

 

大伴金村(おおとも の かなむら)は25代武烈天皇の時代に大連(おおむらじ)となります。今でいうならば総理大臣みたいなものです。金村の時代には武烈天皇が子どもを残さないまま死去したため、大王家がなくなってしまい、越前国(現在の福井県)から継体天皇を迎え入れ、ヤマト王権を立て直します。その功績で金村は武烈・継体・安閑・宣化・欽明の五代の大王の大連となって、ヤマト王権を引っ張ります。

 

大伴金村の失脚

しかしそのころ朝鮮半島では百済(くだら)と新羅(しらぎ)が力を伸ばしており、ヤマト王権と協力関係にあった伽耶(かや)諸国を百済が併合するという事件が起こります。その代わりに百済から多くの技術者がやってきてヤマトに多くの技術を持ってきます。これはその後の日本の歴史に大きな影響を与えますが、朝鮮半島の拠点を失ったことで金村は失脚します。

 

大伴氏の活躍

大伴氏はその後も数々の大臣や将軍を出して活躍を続けます。壬申の乱では大伴馬来田(おおとものまくた)と大伴吹負(おおとも の ふけい)の兄弟が活躍しています。

また大伴旅人(おおとも の たびと)は大納言にまで登り、大宰帥(九州の大宰府の長官、現在の太宰府市にある)としても活躍します。ちなみに有名な山上憶良の上司です。

 

遣唐使として唐に渡った大伴古麻呂(おおとも の こまろ)は唐の高僧の鑑真を日本に連れて帰ったことでも知られます。

 

大伴氏のおとろえ

このように活躍し続けた大伴氏でしたが、旅人の息子の大伴家持(おおとも の やかもち)の代に入り、衰退していきます。軍事・政治に大きな役割を果たしていた大伴氏は、新たに力をつけてきた藤原氏にとっては邪魔でした。また平群氏・葛城氏・物部氏・蘇我氏と古代の豪族が滅びる中で生き延びてきた大伴氏の力は非常に大きいものがあり、藤原氏はこれを確実につぶさなければ藤原氏の天下にはなりません。

 

大伴旅人は天武天皇の孫で左大臣として政治のトップであった長屋王と親しく、長屋王が藤原氏によって滅ぼされると旅人も一時大宰府に飛ばされています。旅人は大宰帥であった時に憶良相手に酒を飲んでいたようです。憶良がなんとか断ろうとして作った歌が「しろがねも くがねも玉も なにせむに まされる宝 子にしかめやも(銀も金も宝石も何になろうか。それ以上の宝は子ども以外にはいない)」です。

 

藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)が聖武天皇(しょうむてんのう)の妻の光明皇后(こうみょうこうごう)の力をバックに力を振るっていた頃、橘奈良麻呂(たちばな の ならなろ)が仲麻呂を倒そうという計画を立てます。しかしその計画はバレてしまい、奈良麻呂らは処刑されますが、大伴古麻呂もそれに関係して処刑されます。

 

旅人の息子の大伴家持は『万葉集』をまとめた有名な人物です。日本史・日本文学に燦然(さんぜん、キラキラとしたようす)と輝く大物ですが、政治的にはあまり恵まれませんでした。

 

家持は橘奈良麻呂の乱にまきこまれ、薩摩守に左遷されています。さらに氷上川継(ひかみ の かわつぐ)の乱という、天武天皇の子孫が桓武天皇(かんむてんのう)を倒そうとした事件に巻き込まれています。よほど邪魔だったのでしょう。そのようなひどい目にあいながらも家持は中納言にまで登ります。

 

ところが平城京から長岡京へ都がうつされたことに反発する人々が、長岡京を作る責任者の藤原種継(ふじわら の たねつぐ)を暗殺しました。

 

その犯人として大伴古麻呂の子どもの大伴継人(おおとも の つぐひと)が処刑され、家持もすでに死去していたにも関わらず関係者とされ、除名処分となります。

 

平安時代の大伴氏

平安時代には大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)が征夷大将軍となって蝦夷(えみし)と戦います。ちなみにこの時の副将軍が坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)です。

 

淳和天皇の即位にともない、淳和天皇(じゅんなてんのう)の本名である大伴親王(おおともしんのう)に遠慮して名前を「大伴」から「伴(とも)」に変えます。

 

淳和天皇の崩御(ほうぎょ、天皇の死去)からはじまった政治的な混乱の中で伴健岑(とも の こわみね)が皇太子恒貞親王を守ろうとして失敗し、健岑は失脚します。これを承和の変(じょうわのへん)といいます。

 

伴善男(とも の よしお)が仁明天皇(にんみょうてんのう)に見出され、清和天皇(せいわてんのう)の時には大納言にまで昇進します。130年ぶりのことです。大伴氏が復活した、と見られましたが、応天門の焼失事件で首謀者とされ、伴氏は一気に衰えます。

 

その後の伴氏

939年、伴保平(とも の やすひら)がコツコツと国司を務め、七十二歳で公卿になりましたが、これが最後の公卿となりました。伴氏はその後は武人の家として残りますが、これも清和源氏や桓武平氏という武士の出現によって力を失い、歴史の表舞台からは消えていきます。

 

鶴岡八幡宮の神主を代々継いだ鶴岡社家や九州南部の戦国武将肝付氏、織田信長の重臣であった滝川一益らが大伴氏の子孫を名乗っています。北条時政の母親も伴氏でした。京都では主殿寮(とのもりょう)の役人であった小野家、桂宮家の家来の尾崎家なども大伴氏の子孫です。

 

アイキャッチ画像は『伴大納言絵巻』(ばんだいなごんえまき)に描かれた伴善男らしき人物です。

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