開国

19世紀に入ると欧米の船が日本近海に来航するようになります。

 

もう一度復習しておきますと、ロシアはラクスマンとレザノフが来航し、イギリスはフェートン号事件を引き起こします。

 

中でもアメリカ合衆国は1848年にカリフォルニアで金が発見され、1849年にはカリフォルニア州としてアメリカ合衆国の一部となります。いわゆる西部劇の世界です。その過程でアメリカ先住民に対する激しい弾圧や虐殺事件が起こされたことも事実です。

 

アメリカはクジラの油が必要だったようです。そのために太平洋で大規模な捕鯨を行っていましたが、捕鯨のための補給基地を必要としていました。

またアジアへの通商ルートを確保する、ための補給拠点が必要であったこともあります。世界史的な視点を入れますと、カリフォルニア州をアメリカがメキシコから獲得したため、アメリカは太平洋へ進出する必要が出てきた、ということになります。

 

1 ペリー来航

日本に最初にやってきた、というイメージの強いペリーですが、実際にはしばしば使者を派遣しています。成功したのがペリーだった、というわけです。

 

アメリカのフィルモア大統領は日本の開国を目指し、東インド艦隊の旗艦として蒸気フリゲート(軍艦のこと)サスケハナを派遣します。ペリーはアメリカの海軍長官に日本を開国させるために大型の蒸気軍艦で威圧する必要性を説き、最終的に4隻の船で日本に向かいます。

 

ペリーは琉球に来航し、琉球王国に開国を促す大統領親書を手渡します。

 

そしていよいよ日本に来航します。浦賀(神奈川県)にやってきたペリー率いる東インド艦隊の4隻の軍艦は浦賀で測量を開始するなど、日本への圧力を加え続けます。

 

当時12代将軍だった徳川家慶は病気だったために老中の阿部正弘はフィルモア大統領の親書を受け取り、一年後に返事をする旨を回答しました。

 

この時に詠まれた狂歌は覚えておきましょう。

 

太平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も眠れず

 

「上喜撰(じょうきせん)」はお茶のブランドです。四杯の上喜撰を飲んだだけでカフェインのために眠れなくなることと、「蒸気船」によって鎖国の太平の眠りが覚まされるという意味を込めています。

 

ペリーが帰った十日後には将軍家慶が死去し、13代将軍徳川家定が就任しますが、病弱でさらに人前に出るのを極端に嫌っていました。菓子作りが得意で、しばしば家臣にカステラを作ってふるまっていた、と言われています。人間的にはやさしい人だったのでしょう。平和な時ならばそれでよかったかもしれません。しかし国家の重大危機が訪れている局面で、家定のような指導力のないタイプのトップを持つと国は崩壊します。

 

老中の阿部正弘はそれまでの江戸幕府のやり方を変えて、広く外様大名などにも意見を求めましたが、議論はまとまらず、幕府の権威は少しずつ損なわれていきます。

幕府は砲撃用の台場を作ります。「お台場」はこの台場に由来します。

 

ペリーは半年後の1854年2月、浦賀に再び来航します。今度は7隻の艦隊でした。さらに2隻が到着し、9隻の大艦隊が集結することになりました。

 

この時についに日米和親条約が結ばれ、日本の鎖国は終わりを告げました。ここでは下田(静岡県下田市)と箱館(北海道函館市)の二港が開港されることになりました。ここではあくまでもアメリカ人の保護と補給が中心です。

 

とりあえずここでは以下のことを整理してください。

1853年ペリー来航(浦賀)

1854年 日米和親条約、下田・箱館の開港

 

2 日米修好通商条約

1855年、アメリカ大統領ピアースはハリスを初代駐日領事に任命し、日本との通商関係を結ぼうとします。ちょうどそのころイギリスは清とアロー号戦争を戦っており、ハリスはこのままではイギリスやフランスが日本に侵略するかもしれない、それを防ぐには日本と友好関係を結んだアメリカとの通商条約を結んで日米の関係を強めるしかない、と説得しました。

 

幕府内では通商条約をやむなし、とする考え方に傾きましたが、朝廷では摂関家の支配に抵抗する中・下級公家が攘夷(外国人を追い払うこと)を主張し、孝明天皇も勅許(天皇による許可)を拒否しました。

 

幕府は非常時として彦根藩主の井伊直弼を大老に付け、条約をめぐる交渉に備えます。直弼はあくまでも朝廷を説得する構えでしたが、交易に積極的な幕府の老中や奉行は条約を結ぶことを優先し、ついに日米修好通商条約が結ばれることとなりました。

 

天皇の意思を無視した条約締結は幕府に対する非難を引き起こしました。

 

またそのころ幕府では病弱だった13代将軍の家定が病死し、その後継者争いも起こります。家定は子どもがいなかったので、どこかから連れてこなければなりません。有力候補は紀州藩の徳川慶福(よしとみ)と一橋家の徳川慶喜(よしのぶ)でした。徳川慶福は御三卿の清水家の出身で、紀州藩に養子に出されていました。11代将軍徳川家斉の孫、13代将軍家定の従弟にあたり、家定に近い血筋でした。ただ若く、将軍についたとしても大老や老中中心の政治が展開されていくことが確実でした。

一方その頃幕府の中で発言力を強めていた薩摩藩主の島津斉彬や越前福井藩主の松平春嶽、水戸藩の徳川斉昭らは斉昭の実子で一橋家に養子にいっていた慶喜を推します。慶喜は「神君(家康)以来の天才」と言われた才気あふれる人物で、困難な局面で幕府を引っ張っていくことが期待されていました。

 

井伊直弼は徳川家定や譜代大名の意向を受けて徳川慶福擁立に動き、慶福を14代将軍とします。慶福は家茂(いえもち)と改名しました。これに反発した徳川斉昭らは井伊直弼に勅許なき日米修好通商条約を批判するために押しかけ、直弼から謹慎処分を言い渡されます。さらに孝明天皇が水戸藩に直接に勅書(天皇の命令)を出します。これを「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と言います。中学受験では覚えなくても構いません。高校受験でも同様です。大学受験だと覚えた方がいいと思います。

 

この戊午の密勅をスルーできない幕府は天皇を処罰するわけにはいかないので水戸藩の責任を問い、家老を切腹、京都留守居役を処刑し、斉昭を蟄居(屋敷にこもって外出を許さない)に処し、さらに関わった各地の藩士を大量に処刑しました。有名なところでは長州藩の吉田松陰や福井藩の橋本左内、小浜藩の梅田雲浜などがいます。

 

この事件を安政の大獄と言います。この言葉はとりあえず最優先で覚えましょう

 

水戸藩の直弼に対する憎しみはすさまじく、直弼が江戸城に登る途中に、桜田門に差し掛かった時に直弼は水戸浪士によって殺害されます。これを桜田門外の変といいます。

 

日米修好通商条約の最大の特徴はいわゆる「不平等条約」であったことです。どういうことか、といえば「治外法権を認める」「関税自主権を失う」の2点です。

どういうことか説明します。

治外法権とは領事裁判権とも言います。日本人が犯罪を犯した場合は日本の法律で、アメリカ人が犯罪を犯した場合はアメリカの法律で裁かれる、というものです。これは両国の法がものすごく違いが大きいので仕方がない面がありますが、のちにこれは大きな問題となります。また説明します。

関税自主権がない、というのを理解するには、関税という概念を理解しなければなりません。知っている人は読み飛ばしてください。外国から品物を輸入する場合、その輸入品があまりにも安い場合は国内産業を保護するために輸入品に税金をかけます。関税自主権がない、というのは国内産業を保護することができない、ということで、競争力の強い方が有利です。その辺アメリカらしいな、と思います。

 

日米修好通商条約では五つの港が開港されることになりました。下田を閉鎖して代わりに神奈川(神奈川県横浜市)、新潟、長崎、兵庫(兵庫県神戸市)、箱館です。この五つは覚えておきましょう。

 

この時イギリス・フランス・ロシア・オランダとも同じ条約を結びます。したがって日米修好通商条約などこれらの条約をまとめて安政の五カ国条約といいます。

 

ここでは以下のことをしっかり覚えてください。

1858年 日米修好通商条約

ハリスと井伊直弼

箱館・新潟・神奈川・兵庫・長崎の開港

治外法権を認める、関税自主権がない、という不平等条約

 

 

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