薩長同盟

覚えるべき点は非常に単純です。普通の授業だったら一分で終わるでしょう。

 

日米修好通商条約→安政の大獄→桜田門外の変→尊皇攘夷思想の高まり→生麦事件→長州藩の砲撃→薩英戦争→四国連合艦隊による下関砲撃→攘夷(外国人を追い払う)は無理→薩長同盟(坂本龍馬の中立で西郷隆盛と木戸孝允)という流れです。

 

テキスト(わかる人にはわかります)の96ページを見ますと次のようにあります。

 

1863年、長州藩は関門海峡を通る外国の艦隊を砲撃しました。翌年下関の砲台が外国艦隊の砲撃を受けた後に占領され、長州藩は敗れました。

はい、これだけではなぜ長州藩がいきなり大砲をぶっ放したのか、ヤバイ連中でしかありませんね。実は理由があるんですが、それを述べるとどんどん長くなる。

 

次にこんなことも書いてあります。

討幕に動いた薩摩藩と長州藩は同じ考えを持ちながら、関係は非常に悪いものでした。そこで坂本龍馬が間を取り持って薩長同盟が結ばれました。

これでは何で仲が悪かったのか、わかりません。

そこでここでは次の2点についてもう少し詳しく説明していきます。

1 下関砲撃事件

2 薩長同盟への動き

 

1 下関砲撃事件

⑴尊王攘夷論

安政の五カ国条約によって日本は関税自主権を持たないまま、貿易を行うことになりましたが、生糸が大量に輸出され、さらに金銀の値段の違いから金が外国に出ていき、経済は混乱しました。その結果、幕府に対する不満が高まり、それは外国人に対する憎しみとなっていきました。

 

もともと孝明天皇が安政条約に反対だったことから、幕府に不満を持つ外国人嫌いの人々は天皇と結びつくこととなります。ここに「尊王論」(天皇を大事にしようという考え)と「攘夷論」(外国人を追い払えという考え)が結びつき、「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」という考え方が出てきます。

 

薩摩藩も長州藩ももともとは公武合体(天皇と幕府が協力して国難に立ち向かうべき)という考えでしたが、薩摩藩の場合は生麦事件から薩英戦争の流れの中で公武合体から大きく変わったことはありません。薩摩藩でも尊攘攘夷論を主張する藩士もいましたが、藩主後見役の島津久光が藩内の尊王攘夷論者を処分していました。これを寺田屋事件といいます。中学受験で出てくる可能性はありません。大学受験レベルでしょう。

 

問題は長州藩でした。長州藩では薩摩藩とは逆に公武合体論を尊王攘夷論が押さえ込み、藩の意見を尊王攘夷に向けていきます。

 

朝廷には攘夷論を主張する公家が力を持ち、長州藩と結びついて攘夷を幕府に迫ります。将軍の徳川家茂は京都に上り、朝廷から大政の委任(国の政治を任せること)とともに攘夷を命じます。幕府は困りました。幕府からすれば「こいつらバカじゃねえの」と思ったでしょう。しかし受け入れなければ面倒くさい奴らが朝廷を動かしています。

 

幕府はとりあえず生麦事件などの処理を済ませ、攘夷を実行します。と言ってもポーズです。各国公使に対して外国人を帰国させるように文書で通達しますが、口では「やらない」と言い、わずか九日間でそれも撤回します。

 

⑵長州藩による外国船砲撃

しかし長州藩は血の気の多い若者が力を握り、自分の思い込んだことを実行できる、と調子に乗っていました。彼らは関門海峡を通航する船を砲撃します。まずはアメリカの商船が砲撃され、続いてフランスの軍艦が砲撃、さらにオランダの軍艦も砲撃されます。オランダは鎖国の時も日本と関係を持っていただけに砲撃されたのはびっくりしたでしょう。

 

アメリカとフランスの軍艦が相次いで下関を砲撃します。これで長州藩はぼろ負けし、欧米の軍事力の強さを見せつけられることになりました。一部の民衆はアメリカ・フランスに協力するありさまで、長州藩は思いました。「そうか。軍事力をもっと強くしないとだめなんだ」と。こりないところが薩摩藩とは違うところです。高杉晋作が奇兵隊を結成するのはこれがきっかけです。

 

長州藩のこの行動を朝廷はほめますが、幕府は軍艦の朝陽丸を遣わし、長州藩をど詰めします。長州藩は幕府の使者を殺して朝陽丸を一時奪い取りますが、こういう長州藩の無茶振りに周囲は引いていきます。

 

⑶禁門の変

京都では長州藩と攘夷派の貴族により孝明天皇を担ぎ出して攘夷を実行する計画が持ち上がります。

 

孝明天皇と薩摩藩と京都守護職の会津藩は手を結んで長州藩と攘夷派貴族を追放することにします。これが「八月十八日の政変」です。中学入試では出てこないでしょう。

さらに隠れた攘夷の志士たちを京都守護職によって組織された新選組が襲撃し、多数を殺害しました。これを「池田屋事件」と言います。

 

追い詰められた長州藩は、翌年の1864年7月に天皇に直接圧力をかけようと京都御所に軍隊を突入させようとしますが、京都守護職と薩摩藩の軍によって防がれます。これを「禁門の変」または「蛤御門の変」といいます。

 

これで長州藩と薩摩藩は決定的に仲が悪くなりました。関門海峡を通る薩摩藩の船はしばしば長州藩によって襲われ、乗組員が殺されました。

 

⑷四国連合艦隊下関砲撃事件

長州藩はこりていません。攘夷の姿勢をやめず、関門海峡は通航できないままでした。イギリス本国は「金がかかるから、今のところ貿易はうまく言っているから長州は放置でいいや」と思っていたようですが、駐日公使のラザフォード・オールコックはこのまま攘夷をほったらかしておくと、幕府が攘夷に傾いたら困る、と思い、イギリス・フランス・オランダ・アメリカによる下関攻撃を計画します。

それを聞いたのは、当時イギリスに留学していた伊藤博文と井上馨でした。この二人はしっかりと覚えておきましょう。彼らは急いで帰国し、オールコックと交渉して長州藩を説得する、と約束しますが、当時の長州藩はそれを受け入れず、無駄でした。

 

17隻の艦隊が関門海峡に集まり、ようやく重大性に気づいた長州藩は伊藤博文を派遣して交渉しますが、もう手遅れでした。

 

徹底的に下関砲台は破壊され、通航の自由、必要品の売り渡し、賠償金などの条件で講和が成立しました。

 

イギリス本国はあくまでも戦争を禁止する命令を出しており、オールコックは命令違反で公使を解任され、イギリスに帰国することとなりました。

 

長州藩では攘夷が不可能であることを知り、イギリスに接近することになります。この辺は薩摩と長州がイギリスに接近していくことになります。

 

⑸第一次長州征伐

長州藩が京都で敗北したことを受けて朝廷では長州藩を攻撃するように幕府に命令します。長州藩では幕府の圧力を受けて降伏しますが、その後の藩内での権力闘争の結果、高杉晋作が力を握り、尊王攘夷から尊王討幕へと藩の意見を変えていきました。

 

2 薩長同盟

土佐藩でも尊王攘夷思想が高まっていました。これは藩主の山内容堂が徳川斉昭・島津斉彬・伊達宗城と組んで徳川慶喜を推したものの安政の大獄で山内容堂も処分されたことが大きいです。

土佐の尊王攘夷派の志士の中には薩摩藩の島津久光が上洛するのを討幕のための挙兵と勘違いして脱藩して薩摩藩に加わろうとするあわて者がたくさんいたようです。これは生麦事件のところでも述べましたが、久光は幕政改革を推し進めるために上洛し、さらに江戸に向かったのですが、その帰り道で生麦事件を起こしたことで尊王攘夷の渦に巻き込まれ、薩摩に帰ってしまいます。

 

その脱藩したあわてものの中に坂本龍馬という人物がいました。彼は脱藩した後、幕府の海軍奉行の勝海舟に弟子入りし、海舟と海軍の創設に力を尽くします。しかし池田屋事件や禁門の変で龍馬の関係者がいたことで勝海舟自身が問題視され、海舟は海軍奉行をやめさせられ、江戸に帰ることとなりました。海舟は薩摩藩に龍馬らの面倒を見るように頼みました。

 

薩摩藩は龍馬に金を出して龍馬は亀山社中という会社を設立します。龍馬を含めた土佐脱藩志士たちは薩摩と長州が手を結んで幕府を倒すべきた、と考え始めていました。しかし禁門の変の関係で両者は決定的に仲が悪く、そこをどうするか、でした。

 

龍馬らはいろいろな関係を頼って長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛を引き合わせようとします。この二人もしっかりと覚えてください。この時は西郷が他の仕事があってすっぽかしたため桂がブチギレるということになりますが、龍馬は米不足の薩摩藩と武器不足の長州藩の取引を成功させ、薩長は和解します。

 

さらに両者は龍馬の仲立ちで薩長同盟を結びます。内容は幕府による長州征伐に薩摩は参加せず、長州を支援する、というもので、当面の敵は当時の幕府の中心であった「一会桑政権」と呼ばれる体制でした。「一会桑(いちかいそう)」とは、当時京都で力を持っていた将軍後見職の一橋(徳川)慶喜、京都守護職の松平容保(会津藩主)、京都所司代の松平定敬(桑名藩主)の三者です。この段階では実際には討幕そのものに踏み込んだのではなく、京都の政治を一会桑から取り戻すことが目標だったようです。

 

この結果第二次長州征伐は失敗し、その途中で将軍徳川家茂が死去したため、幕府の権威は大きく低下し、幕府の滅亡につながっていきます。

 

まとめ

覚えておくべき用語

尊王攘夷←政治の中心を幕府から天皇にもどし(尊王)、外国人を追い払え(攘夷)、という考え。

生麦事件(1862)→薩英戦争(1863)

下関事件(1863)

薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の関係→対立から薩長同盟へ

坂本龍馬(土佐藩)の仲介

 

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