江戸幕府の滅亡

江戸時代の最後です。

幕府の滅び方はいろいろあります。鎌倉幕府は六波羅探題が足利尊氏に、鎌倉が新田義貞にそれぞれ攻撃され、一気に滅びました。多くの人が死にました。室町幕府は足利義昭が織田信長に追放されて滅びました。それなりに戦闘は起こっていますが、受験に出るほどではありません。『虚像の織田信長』では詳しく書いてあります。

 


虚像の織田信長 覆された九つの定説

では江戸幕府はどういう滅び方をしたのでしょうか。

 

中学受験対策としては次の流れで十分です。

 

第二次長州征伐の失敗→新たに将軍になった徳川慶喜は「大政奉還」(政権を朝廷に返上する)=江戸幕府の滅亡→王政復古の大号令(天皇の政治にもどることを宣言)→旧幕府の不満→戊辰戦争→明治維新

 

これをさらさら、と流されてはよく分からんところがいっぱい出てきますね。

「大政奉還と王政復古の大号令ってめっちゃかぶってますやん」とか、

「大政奉還したんなら、王政復古の大号令が出たところで怒らんでもよくね?」とか。

でもその疑問を説明していると結構長くなります。しかもややこしく入り組んでいます。

そこで奥の一手、「覚えろ!」の出番です。上に書いてある流れくらいならば覚えるのもそれほど難しくありませんね。ただ味気ないです。

ここでは流れを押さえる、ということを重視しています。ただ「流れを押さえる」と言っても、上に書いてあることを流れとはいいません。この間の「なんでこうなった?」を説明してこそ「流れを押さえる」ということができます。ただこれには時間がかかります。たくさんのことを説明してはじめて「ああ、なるほど、そういうことか!」と思えるわけです。

というわけで江戸幕府の滅亡にいたる流れを押さえていきましょう。

 

第二次長州征討で幕府はぼろ負けします。これで幕府の権威は崩壊し、事実上の滅亡となりました。しかもその難しい情勢の中、14代将軍徳川家茂(いえもち)が死去します。

 

慶応の改革

将軍職はもはや徳川慶喜(よしのぶ)しかいませんでした。15代将軍に就いた徳川慶喜はフランス公使のレオン・ロッシュの助言を取り入れて幕府最後の改革である「慶応の改革」に取り組みます。ちなみに受験ではほぼ出ないので、中学受験・高校受験・大学受験のいずれでも無視して大丈夫です。

慶応の改革の中身は、老中を陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁という専門職に当て、老中首座をこの五つの部局をまとめる仕事に就かせる、事実上の内閣制度が導入されました。

慶喜の特色は会津藩・桑名藩をバックに、朝廷とも協力して政治を進めるために京都に居続けたことにあります。朝廷でも慶喜を関白にする計画も持ち上がるなど、慶喜の改革は着実に進んでいきました。

 

兵庫開港問題

大きな問題が兵庫開港問題でした。1858年の安政の五カ国条約神奈川・函館・新潟・長崎と並んで開港されるはずだった兵庫は、実は9年経ったこの段階でもまだ開港していませんでした。それは外国人嫌いの孝明天皇が、京都に近い兵庫を開港することに抵抗していたからです。

慶喜は兵庫開港の勅許を獲得することに成功し、慶喜の動きを牽制しようとした島津久光・松平春嶽らの動きを封じます。慶喜の政治的勝利によって薩長はそれまでの雄藩連合(強い藩が連合して公武合体を主導し、政治の主導権を武力を使わずに幕府から朝廷に動かそうとする動き)を目指す動きから武力討幕に方針を切り替えます。

 

大政奉還

土佐藩の坂本龍馬船中八策と呼ばれる政治綱領を後藤象二郎を通じて土佐藩前藩主の山内容堂に提出します。その中で朝廷に政権を返す大政奉還の方針が定められていました。他には議会の開設や憲法の制定など近代の政治体制を目指す先進的な構想であった、とされています。

大政奉還の建白書は土佐藩を通じて慶喜に提出され、慶喜は二条城に諸大名を集め大政奉還を宣言し、朝廷に政権を返しました

ここに江戸幕府は消滅しました。

とは言っても当時の朝廷ではいきなり政権を返されても何かできるはずもありません。さらに言えば当時の朝廷の主流は摂政以下幕府と関係の深い人物が中心でした。当然朝廷が政治をやろうとすれば徳川慶喜を頼るしかありません。これが慶喜が大政奉還に踏み切った理由です。幕府をなくすことで武力討幕の名目をなくした上で、事実上の政治を慶喜が引き続き行う、という形を慶喜は考えていました。

 

討幕の密勅と王政復古の大号令

慶喜の大政奉還に慌てたのは薩長の武力討幕派でした。ここまで慶喜の政治力の前に薩長は政治的な敗北を積み重ね、追い込まれていました。この不利な状況を打開するために薩長と組んだ下級貴族の岩倉具視は討幕の密勅(幕府を倒せ、という秘密の天皇の命令)を薩長に出します。

それを受けて薩長を中心とする雄藩により御所を占領して慶喜と親しい貴族をしめ出した上で、王政復古の大号令を出します。

そこでは総裁・議定・参与と呼ばれる新政府の首脳が任命されます。この「総裁・参与・議定(ぎじょう)」を合わせて三職と呼びます。トップの総裁には後続の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)、議定には松平春嶽山内容堂などが、参与には岩倉具視西郷隆盛大久保利通らが選ばれます。ここで挙げた参与の3人はその後の政治の中心となるので覚えてください。あとはどうでもいいです。

そしてそのまま小御所会議と呼ばれる会議が開かれ、その場で慶喜に対して慶喜の内大臣の官職を辞任し、400万石の幕府の領地を朝廷に返すように求める「辞官納地」を慶喜に突きつけます。

 

戊辰戦争

慶喜は朝廷に対抗するため一旦は大坂城に移り、そこにフランス・イギリス・アメリカ・イタリア・プロイセン・オランダの外交官を集めて引き続き外交を慶喜が責任を持って行うことを宣言し、また朝廷の強硬な「辞官納地」に反発した会津・桑名両藩の強硬派も軍を各地に展開し始めました。

薩摩も江戸でテロ行為を行わせ、慶喜らを挑発します。慶喜らは京都に向けて進軍を開始しますが、薩長両藩を中心とする新政府軍に鳥羽・伏見の戦いで敗北します。この鳥羽・伏見の戦いに始まる旧幕府軍と新政府軍の戦いを、当時の干支から戊辰戦争(ぼしんせんそう)と言います。

もともと武力衝突をさけようとしていた慶喜は戦闘派の京都守護職松平容保を無理やり江戸に連れ帰り、江戸で引きこもります。江戸に攻めのぼる新政府軍に対して旧幕府は勝海舟を使者として新政府軍の西郷隆盛と話し合い、江戸を戦闘なしで明け渡すことで合意しました。

その後は会津を中心とした奥羽列藩同盟が作られ、東北地方は新政府軍に抵抗しますが、東北地方は会津藩の降伏で平定され、北海道に逃げた榎本武揚(えのもとたけあき)らが函館の五稜郭に立てこもりますが、それも降伏し、新政府による国内の統一がなされます。

ここに江戸時代は終わりを告げ、明治時代となります。

 

 

 

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