歴史の大きな流れを押さえようー明治時代2

前回の続き、「歴史の大きな流れを押さえよう」シリーズの明治時代2です。今日は文明開化と自由民権運動をやります。

 

文明開化は軽く押さえておいて、メインは自由民権運動の流れになります。

 

1 文明開化

「文明開化」とは生活の西洋化のことをいいます。

断髪令が出され、それまでチョンマゲ姿であった人々はまげを切り落として現代の我々のような髪の毛になります。

「半髪頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする。総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と都々逸(どどいつ)にもうたわれました。

「半髪頭」とはいわゆるチョンマゲのことです。時代劇に出てくる「上様」とか織田信長画像を思い出せば分かりやすいかと思います。「因循姑息」とは古臭いもの、という意味です。「総髪頭」は今で言うところの長髪です。そして散切り頭は短めに切り揃えた髪の毛です。

 

 

⑴ 生活の変化

太陽暦の採用→それまでの太陰暦に変えて太陽暦を採用しました。この辺は俳句の季語の説明でも出てきます。

郵便制度1871年前島密が整備しました。

鉄道1872年新橋〜横浜間に鉄道が開通しました。機関車はイギリスから輸入されました。その時の1号機感謝はのちに童話の『機関車やえもん』のモデルになっています。

1号機関車(150型蒸気機関車)

 

福沢諭吉『学問のすゝめ』「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」

・中江兆民←東洋のルソーと言われ、自由民権運動に大きな影響

 

板書

文明開化

太陽暦・洋服・洋食の採用など生活の洋式化

1871年:郵便制度←前島密

1872年:鉄道開通、新橋〜横浜

福沢諭吉『学問のすゝめ』「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 

⑵ 学制

1872年学制が発布され、国民に教育を受けさせる義務が課せられました。いわゆる義務教育です。従来はそれぞれが必要と思う知識を寺子屋などで身につけていたのですが、国家が責任を持って国民を育てる、という教育制度ができました。

働き手をとられる、授業料や建設費の負担が大きい、などの理由で反対運動も起きましたが、少しずつ義務教育は国民に広がっていきました。当時は義務教育は4年でした。

私立学校も設立されます。有名なところでは福沢諭吉の慶應義塾、大隈重信の東京専門学校(後の早稲田大学)の他には関西では新島襄の同志社があります。1875年には二人の女性宣教師によって神戸女学院も設立されています。

 

板書

1872年:学制→義務教育(反対運動など)

 

⑶ 文明開化を支えた外国人

エドワード・モース大森貝塚(東京都)を発見し、日本の考古学のはしりとなりました。

・ウィリアム・クラークは札幌農学校(北海道大学)の教頭を務め、「少年よ、大志を抱け」という言葉で有名です。

・エルヴィン・フォン・ベルツは医学の発展に貢献しましたが、「ベルツの日記」を残し、当時の日本の様子を書き留めています。

テキストではこの三人が扱われていますが、他にアーネスト・フェノロサ(美術)やラフカディオ・ハーン(語学)も外せません。

 

2 立憲国家への道

⑴ 征韓論と西南戦争

新政府を動かしていたのは長州・薩摩を中心とする特定の藩の出身者でした。これを「藩閥政治」といいます。限られた人々だけが権力をふるう状態に、人々の不満は高まります。

特に不満を強く持っていたのは武士だった士族です。彼らは「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」によって仕事を失いました。「秩禄処分」とは、武士に支払われていた給料を打ち切ったのです。そして「徴兵令」によって仕事を失いました。国民を徴兵して新しい軍隊を作ったために、それまで軍人だった武士は仕事を失ったのです。一気に仕事と収入を失った士族の不満は新政府に向かい、様々な士族の反乱(不平士族の反乱)が起こります。

 

不平士族の不満をごまかすために計画されたのが「征韓論」です。武力で朝鮮を開国させる、というものでした。朝鮮は当時はまだ外国との関係を持っておらず、攘夷思想を持っていました。そして開国した日本に対して「日本は夷(野蛮人)になってしまった」と日本を批判していました。これを武力で変えようと言うものです。

 

この計画は、当時の政府の最高責任者であった岩倉具視らがヨーロッパにいる間に、その留守を守っていた西郷隆盛らが中心となって計画した、とされています。他には板垣退助が参加していました。しかし帰国した岩倉や大久保利通らがこの計画に反対し、西郷らは下野(政府を止めること)して故郷に帰りました。

 

政府をやめた西郷は鹿児島で不平士族に担がれて西南戦争(1877年)を起こし、武力で政府をつぶそうとします。しかし士族の軍隊は徴兵された近代的な軍隊に敗北し、西郷は自殺して西南戦争は終わりを告げました。西南戦争の大きな意味は、武力で政府を倒すことは不可能であることがはっきりし、これ以降、言論で政府を批判する、という方向に変わっていきます。それが自由民権運動の盛り上がりにつながります。

 

板書

藩閥政治→薩長(薩摩藩と長州藩)の出身者による政治

士族の不満←秩禄処分・徴兵令による生活苦

征韓論→武士の不満をそらす(西郷隆盛・板垣退助)←大久保利通らの反対

1877年:西南戦争→西郷隆盛ら→武力による反乱の終わり→言論へ

 

⑵ 自由民権運動

征韓論を唱えて政府を去った土佐藩出身の板垣退助は藩閥政治による政治を1874年から批判し始めます。板垣の場合は西南戦争より前から言論による政府批判を行なっていました。

西南戦争の三年前の1874年、板垣は「民撰議院設立建白書」を提出します。ようするに「民衆の選挙で選ばれた議員による議会を作るように意見を申し上げます」ということです。これは弾圧されますが板垣は立志社を設立、やがて愛国社と名前を変えて「民撰議院」の設立を求め続けます。最初は不平士族が中心で、こういうのを「士族民権」と言いますが、やがて金持ちの農民たちが参加していきます。この段階を「豪農民権」といいます。基本的に中学受験ではどうでもいいです。多分出ません。

 

西南戦争の敗北を受けて愛国社は1880年に「国会期成同盟」(国会を作ることを目指す同盟)を作ります。

ちょうどそのころ政府では北海道開拓使をめぐる一大汚職事件が起こります。当時の北海道のトップは開拓使ですが、開拓使長官の黒田清隆(薩摩)は自分のお友達の五代友厚に開拓使の官有物を安く払い下げ、つまりお友達に国有財産を安く売ってしまう、ということを行いました。当然世論は黒田だけでなく、それを許してしまっている政府にも批判を行うようになります。政府ではなんとかごまかそうとしましたが、政府の高官だった大隈重信(肥前)が黒田批判を始めてしまい、大隈と比較的関係の良かった伊藤博文(長州)も岩倉に大隈を切るように進言し、大隈は下野しました。

もし今の日本で同じことが起きたならば「政府がどんなに税金を私物化しようと頑張っている政府に文句を言うな」という声が大きいでしょうが、当時の世論はもう少し政府を批判します。

政府批判を沈めるために1881年、「国会開設の勅諭」(国会を開設することを約束する天皇の言葉)が出され、10年後の1891年に「民撰議院」である「国会」が作られることが決定しました。政府に批判をすれば、政府はその批判に応えて、世の中はより住みやすくなるのです。

 

板書

自由民権運動

→藩閥政治(薩長中心)に対して言論で対抗

1874年:板垣退助ー民撰議院設立建白書

1880年:国会期成同盟

1881年:開拓使官有物払下げ事件と大隈重信下野→国会開設の勅諭

 

 

⑶ 政党の結成

国会が作られるためには同じ政治的な考えを持つ人々が集まった「政党」を作らなければなりません。政党同士が議論してよりよくしていくのが議会の存在意義です。政党を否定すると独裁政治となってしまいます。

1881年、板垣退助を中心に「自由党」が作られます。フランスの民権政治をモデルにした政党で、一院制つまり衆議院だけを作るというものでした。一院制では民意はよりストレートに政府に通じます。

1882年、大隈重信を中心に「立憲改進党」が作られます。イギリスの立憲君主制をモデルにした政党で、立憲主義という、国家が好き勝手なことをしないように権力を制約する最高法規である「憲法」を作ってその憲法に従って政治を行う、というものです。大隈は衆議院のブレーキ役として貴族院を置く二院制を主張していました。

 

しかしそのころから自由党は生活に困った農民が参加するようになり、運動も激しくなります。

1882年、板垣は演説中に暴漢に襲われて重傷を負います。この時「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされていますが、これは参加者の一人が叫び、その叫んだ本人が板垣の言葉として広めたものと言われています。板垣本人は「声も出なかった」と証言しています。私が子どものころに読んだ話では「オラが死んだち、自由は死にやせんぜよ」と叫んだ、とされています。何なんでしょうね。

 

しかし過激な運動が続き、自由党は解散に追い込まれます。そして1884年には秩父事件が起こります。生活に苦しんだ元自由党員が「秩父困民党」を作り「自由自治元年」という元号を掲げて立ち上がった事件です。軍隊も出動する騒ぎになり、自由民権運動は徐々に衰えていきます。

 

板書

自由党(板垣退助)→フランス流の民権政治

立憲改進党(大隈重信)→イギリス流の立憲政治

民権運動の激化→秩父事件(1884年)

 

 

⑷ 憲法の制定と議会の始まり

一方そのころ政府では憲法を作るために伊藤博文らをプロイセンに派遣し、憲法の研究を行わせます。そこでベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイストやウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインの講義を受け、シュタインからプロイセン憲法を手本にすることを勧められたことがプロイセン流君主権の強い憲法を作ることになったきっかけと言われています。シュタイン自身はプロイセンをきらっていましたが、日本の現状を見る限り君主から与えられる形にしないとダメだ、と思ったようです。まあ幕府が滅びてからそれほど時間は経っていませんし、民衆が自ら戦って権利を獲得した訳でもなく、権利はお上から与えられる、というのが向いていた、というシュタインの分析はなかなか考えさせられます。

1885年、プロイセンから帰国した伊藤博文はそれまでの太政官という形を改め、内閣制度を作ります。内閣総理大臣と仕事を分担する国務大臣からなる内閣制度による行政を内閣制度といいます。そして初代内閣総理大臣は伊藤博文がつきました。

 

その後憲法の草案が作られ、それを審議しますが、そこでの森有礼(もりありのり)と伊藤の議論を見ておきたいと思います。

伊藤が提出した憲法草案に森がケチをつけます。

森「臣民の権利とあるが、こんなもの書く必要がない。臣民には義務があるが権利は書かなくてよろしい」

伊藤「ちょっと待て。今の森の意見は憲法学に退場を命じるようなものだ。権利を臣民に認めないと国家がやりたい放題になる。それはまずいのではないか」

森「そもそも憲法において権利を書いたならば、まるで権利が憲法によって与えられているようなものではないか。そうではない。権利というのは人間一人一人に生まれつき存在しているものなのだ。憲法に書いてあるから権利が認められるものではない」

伊藤「お前の言うこともわかるよ。しかし書かないとそもそも権利なんて知らん人らには通用しないだろう?きちんと憲法に書かないと権利なんて保証されないんだよ」

森「まあ、現実にはそうなるよね」

 

1889年2月11日、「大日本帝国憲法」が発布されました。アジアで最初の憲法と言われますが、これは国家の権利を制限する最高法規としての「憲法」をアジアで最初に作り上げた、ということです。「十七条の憲法」と「大日本帝国憲法」や「日本国憲法」をごっちゃにして「日本には聖徳太子の昔から憲法がある」というデタラメを言う人には注意してください。

大日本帝国憲法は天皇が定め、臣民に与える形をとっていました(欽定憲法(きんていけんぽう)といいます)。天皇に主権(政治のあり方を決める力)があり、国民は「臣民」(天皇の家来)とされました。そして内閣、帝国議会、裁判所は天皇を助ける機関とされ、天皇は陸海軍の最高指揮者とされました(これを統帥といい、その権力を統帥権といいます)。そして天皇は政治的な責任を負わない、とされています。さらに臣民の権利は法律によって制限できる、とされていました。これはどんな法律を作っても憲法によって制限されないことを意味します。

 

日本国憲法の三大原則と比較する問題も見かけますので、日本国憲法を意識しておきましょう。

①天皇主権 ②天皇は陸海軍を統帥 ③臣民の権利は法律で制限

ちなみに日本国憲法の三大原則は以下の通りです。

①国民主権 ②平和主義 ③基本的人権(全ての人間が生まれつき持って生まれた権利)の尊重

 

森有礼は皮肉なことに憲法発布の日に国粋主義者によって暗殺されます。

1890年には天皇に忠誠を誓うための「教育勅語」が出されます。

 

大日本帝国憲法の規定に従って帝国議会が開設され、衆議院貴族院がおかれました。貴族院は天皇が任命した議員と、華族の中から選ばれた議員で構成され、選挙で選ばれた訳ではありません。選挙で選ばれるのは衆議院ですが、衆議院と貴族院は対等で、両方の意見が一致しないと帝国議会は機能しませんでした。

1890年衆議院議員選挙が行われましたが、「直接国税を15円以上収める25歳以上の男子」にしか選挙権はありませんでした。これは人口の1%ほどです。

 

板書

1885年:内閣制度→初代内閣総理大臣ー伊藤博文

伊藤ら、プロイセン(ドイツ)へ憲法の研究→プロイセン憲法を手本に

1889年2月11日:大日本帝国憲法(明治憲法)発布

欽定憲法・天皇主権・臣民の権利は法律で制限・天皇は陸海軍を統帥

1890年:教育勅語

1890年:第一回衆議院議員選挙→選挙権は「直接国税15円以上を納める25歳以上の男子」→人口の約1%

 

フォローする