天保の改革

天保の改革です。いよいよ幕末です。

江戸幕府の政治はとりあえず「三大改革」を中心にその前後を埋めていく方向で押さえていけばわかりやすいか、と個人的には考えています。

綱吉の政治→正徳の治→享保の改革→田沼政治→寛政の改革→大御所政治→天保の改革

 

1 大御所政治

要するに「幕府の衰退」という項目です。

定信の失脚後、11代将軍徳川家斉の時代です。この時代には幕府の行き詰まりが少しずつ明らかになってくる時期です。

幕府の行き詰まりが目に見えるようになってきたのは、やはり日本列島周辺に外国船が姿を見せはじめたからです。

⑴ラクスマンとレザノフ

19世紀には市民革命や産業革命の結果、ヨーロッパでは大きな変化が起こり、世界各地でヨーロッパの強国(列強といいます)による植民地支配の動きが強まっていきました。こういう傾向を「帝国主義」といいますが、中学入試や高校入試では覚える必要もないでしょう。

ロシアはシベリア開発を通じてオホーツク海に到達し、日本と国境を接するようになります。まず日本の鎖国体制に大きな影響を与えたのはロシアでした。

ロシアの南下は幕府にも大きな緊張を与えました。1792年、ロシアのラクスマンが根室に来航し、漂流民の大黒屋光太夫らを送り返すとともに通商を求めてきました。当時の幕府は松平定信が老中の時期で、定信は長崎への入港許可書をラクスマンに与え、長崎に行くように回答しました。

1804年にはレザノフが長崎に来航し、通商を求めました。彼は定信の発行した入港許可証を持ってきていましたが、幕府は「鎖国は日本の伝統的な法だ」として通商を拒否しました。ラクスマンに通商をほのめかしながらレザノフにはそれを断ったのは無礼だ、と杉田玄白が怒るほどの幕府の対応でしたが、定信がすでに失脚し、後を継いだ松平信明としては「知らんがな」状態だったのかもしれませんが、レザノフからすれば「ふざけんなや」という気持ちになったとしても不思議ではありません。部下のフヴォストフに命じて樺太や択捉島を襲撃させています。これが幕府の態度を硬化させ、国後島に上陸したゴローニン艦長を逮捕します。艦長を逮捕されたロシア軍艦は報復として高田屋嘉兵衛を捕らえ、結局交換される形で解決しました。

 

またゴローニン事件の直前にはナポレオンの支配下に入っていたオランダと対立していたイギリスが長崎に乱入し、出島を襲撃しました。まあ幕府としてはナポレオンのとばっちりですね。

 

⑵異国船打払令と蛮社の獄

幕府はキレました。それまで日本に上陸してきた外国船に対しては基本的に薪水(しんすい)つまりたきぎと水、そして食料を与えて大人しく引き上げてもらうという方針でしたが、1825年、異国船打払令を出します。その御触書に「二念無く打ち払いを心がけ」とあることから無二念打払令ともいいます。

 

1837年、アメリカのモリソン号が浦賀に来航しました。異国船打払令に従って浦賀奉行所は砲撃し、退去させましたが、実は日本の漂流民を送り届けに来た船でした。のちになってそれを知った幕府は「漂流民はオランダ船で帰国させる」という方針を最終的に決めますが、その過程で「漂流民は帰国させない、来航戦は打ちはらう」という意見も出たこともあり、幕府の強硬な姿勢に対し、洋学者のグループからは幕府批判が噴出します。

 

洋学者のグループは尚歯会と言っていましたが、彼らの中には幕臣の江川英龍(えがわひでたつ)、川路聖謨(かわじとしあきら)の他に有名なところでは三河田原藩家老の渡辺崋山、医師の高野長英がいます。覚えるのは後ろ二人でいいです。

洋学者の影響力を危険視したのが幕府の儒学者林述斎とその息子の鳥居耀蔵でした。鳥居耀蔵は江川英龍を追い落とすために尚歯会への弾圧を行います。

具体的には渡辺崋山の書いた「慎機論」や高野長英の「戊戌夢物語」が幕政批判である、として問題視し、さらにアメリカに渡航しようとしていたという事件をでっち上げて逮捕しました。

渡辺崋山は蟄居(自宅の一室にこもって外出を許されないこと)となりましたが、二年半後、藩内の反崋山派による圧力を受けて自刃に追い込まれました。高野長英は永牢(終身刑)に処せられましたが、火災に乗じて逃亡し、顔を焼いて人相を変えながら転々とし、一時は宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)に保護されましたが、最終的に江戸に戻って町医者になり、そこで町奉行所に捕まり、殺害されました。

この一連の動きを「蛮社の獄」といいます。

 

⑶大塩平八郎の乱

1833年、洪水や冷害によって東北地方を中心に大凶作が起こり、多くの餓死者が出ました。これを天保の大飢饉といいます。農村で暮らせなくなった人々は江戸を目指し、御救小屋では70万人を超える人々であふれました。各地で百姓一揆や打ちこわしが起こります。

 

ちなみにこの時に三河田原藩では一人の餓死者も出さなかったとして有名です。これには家老の渡辺崋山が行なった政治が大きかったと言われています。渡辺崋山はこれで名声を確保しましたが、最後はねたまれて自刃に追い込まれてしまいました。

 

大坂では江戸に米を大量に送っていました。そのため大坂では米の値段が上がり、人々の恨みの声も大きくなっていました。このような中、大坂町奉行所の元与力で、陽明学者であった大塩平八郎は自らの本5万冊を売ってその金で人々を救おうとしましたが、600万円程度の金ではどうしようもありません。

もともと非常に厳しい姿勢であった平八郎は当時の奉行所からも白眼視されており、売名だ、と悪口を言われ、大商人の鴻池幸実に借金をして救おうとしても奉行所から妨害が入り、ついに平八郎は立ち上がることを決意しました。

大砲を打ち、市中を焼き払いますが、半日で鎮圧され、大坂の五分の一が焼けてしまいました。潜伏していた平八郎らは古河藩家老の鷹見泉石らによって囲まれ、火薬に火を放ち、爆死しました。

 

その後、平八郎が幕府を批判した文章が出回り、多くの一揆や打ちこわしで「大塩門弟」を名乗る人物が先頭に立ち、モリソン号が来航していたこともあり、モリソン号に大塩が乗船して江戸を襲撃するという噂まで流れ、幕府は大塩に死後も振り回されることになりました。

 

⑷アヘン戦争

19世紀も半ばに入ってくると、イギリスは世界への進出をさらに強め、アジア各地域を植民地化していきます。

そのイギリスの悩みは清との貿易でした。清から多くの茶や絹を得ていたイギリスですが、貿易赤字のために銀がイギリスから清に流れていきました。

そこでイギリスは植民地化したインドで麻薬であるアヘンを栽培し、それを清に売ることで貿易赤字を解消しようとします。アヘンの威力で清の社会はボロボロになり、また銀が清からインドを通ってイギリスに流れていきました。1840年、清はアヘンを没収し、処分しました。それに対し、イギリスは清との戦争に踏み切り、清は敗北します。

この時香港がイギリスのもとに渡されます。香港は1999年までイギリスの支配下にありました。

 

⑸天保の改革

アヘン戦争の衝撃は清よりも日本でより深刻に受け止められました。清では「大したことはないや」という空気だったようで、敗戦後も中華思想を持ち続け、危機感を持ちませんでした。ちなみに危険が迫っているにも関わらず「安全だ」と思い込んで何もしないことを「安全性バイアス」といいます。

 

アヘン戦争に影響を受け、自らの思想をつくっていった有名人に吉田松陰や佐久間象山がいます。吉田松陰は覚えておいてください。長州閥が現在に至るまで政界の中枢を占める日本では非常に重要人物として扱われます。

 

時の老中の水野忠邦は大塩平八郎の乱とアヘン戦争のダブルパンチに対して幕府を根本的に立て直す必要を感じました。

ⅰ 薪水給与令

幕府は異国船打払令をゆるめ、日本に来航し、飲料水や燃料を与えるようにする「薪水給与令」を出します。その一方で江川英龍や高島秋帆らを登用して西洋風の大砲を整備させています。

 

ⅱ 株仲間の解散

忠邦の天保の改革で一番ポイントとなるのは株仲間の解散でしょう。田沼政治で出てきた株仲間ですが、寛政の改革では解散されず、天保の改革でようやく解散となります。これによって物価を引き下げようとしたのですが、実際にはうまく回っていたシステムがガタガタになり、経済は混乱します。

 

ⅲ 人返し令

当時は農村から都市部に人口が移動し、年貢が少なくなっていました。忠邦は江戸にいた農村出身者を強制的に返して農村を復興させようとしました。しかし実際には江戸に住み着いている人をむりやり農村に返すのは現実的ではない、として新たに農民の江戸への流入を禁止し、統制しようとしました。

 

ⅳ 上知令(じょうちれい・あげちれい)

江戸・大坂近辺の大名や旗本の領地を幕府の直轄地として地方に分散する直轄地を集中させようとしました。これを上知令といいます。しかしこれは反発され、結果的にこれが忠邦の命取りとなりました。忠邦は老中をやめさせられ、天保の改革は終わりました。

 

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